斎明天皇越智岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に眠る斎明天皇 | |
(1)斎明天皇が八歳で亡くなった孫の建王(たけるのみこ)を偲んで越智岡を舞台に詠った歌が日本書紀にあります。 | |
日本書記 斎明天皇四年五月条 今城(いまき)なる 小丘(おむれ)が上に 雲だに も 著(しる)くし立(た)たば 何か歎(なげ)かむ |
(意 訳) 今城の小丘(越智の岡)の上に せめて雲だけで もはっきりと立ったなら どうしてこれほど嘆こ うか |
斎明天皇越智岡上陵は、高取町大字車木(くるまき)の民家のうしろにある丘陵の山頂にあります。 大田皇女(ひめみこ)の弟で、八歳で亡くなった聾唖の建王と間人皇女(はしひと)も合葬されています。 木のみっちり茂った岡で、麓から頂上まだ屈折した石段がつづき、 中腹の茂みに大田皇女の墓があります。大田皇女は息子の天智天皇の娘で、後に天武天皇に嫁しました。 斎明天皇は、舒明天皇(じょめい)の皇后で夫君の崩御後、皇極天皇(こうぎょく)となり、645年大化改新とともに位を弟の軽皇子孝徳天皇に譲り、孝徳天皇崩御後には、重祚(ちょうそ)して斎明天皇となりました。 皇極天皇時には、息子の中大兄皇子が大化改新を行うため、蘇我入鹿(いるか)を 自分の目の前で誅するのを目撃し、また斎明天皇時には孝徳天皇の息子の有間皇子(ありま)が謀反の疑いで中大兄皇子に謀殺される惨劇を見なければなりませんでした。 しかし、中大兄皇子が行う大化改新の行政改革は思うようには進展をせず、また対外関係では新羅と戦う百済への救援と内憂外患を背負っている息子の中大兄皇子を助けるため、「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と言われる亀形石造物などと渠を築造し、酒船石をも取り入れた丘陵全体を何重もの石垣を囲んで、国家の存栄を祈念する祭祀の場を作って民衆の動揺を抑えました。また、息子の要請により天皇自身も百済救援の兵を派遣するため九州筑前朝倉宮に出征されましたが、その地で急死されました。 古代飛鳥時代に律令国家建設に向け大化改新で行政の大改革を成し遂げた中大兄皇子(天智天皇)と、その跡をついで強力な中央集権国家を築いた大海人皇子(天武天皇)、孝徳天皇の皇后である間人皇女(はしひと)の母親でもあります。 今は、この越智の岡で深い眠りについていますが、現在の混迷する政治・経済・社会情勢をどのように見ているのか。みたび黄泉がえり、女帝の活躍を希求するのは、歴史案内人だけの願いでしょうか。 車木よりさらに進むと大字越智に至ります。曽我川から東に明日香に向かって農面道路が整備され、北を走る丘の麓と南を走る丘の麓の二つの丘陵に囲まれて越智と大字寺崎の集落があります。越智野は二つの丘の麓一帯を広くさしたものと思われます。 |
|
(2)斎明天皇越智岡上陵の西南にある越智野を舞台に詠った歌が万葉集にあります。 | |
万葉集 巻2 194番 柿本朝臣(あそみ)人麻呂が泊瀬部皇女(はつせべ) と忍坂部皇子(おさかべ)とに献(たてまつる)る歌一 首 併(あは)せて短歌 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上(かみ)つ瀬に生 (お)ふる玉藻(たまも)は 下つ瀬に 流れ触(ふ) らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り なびかひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔肌(にきは だ)すらを 剣太刀(つるぎたち) 身に副(そ)へ寝ね ば ぬばたまの 夜床(よとこ)も荒るらむ そこ故 に 慰めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて 玉垂(たまだれ)の 越智(おち)の大野の 朝露(あさ つゆ)に 玉裳(たまも)はひづち 夕霧に 衣は濡 れて 草枕 旅寝かもする 逢はぬ君故(ゆえ) |
(意 訳) 柿本人麻呂が泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに 奉(たてま)った歌一首と短歌 (飛ぶ鳥の) 明日香の川の 上の瀬に 生(は) えている玉藻は 下の瀬まで 流れて触れる が その玉藻のように 揺れて寄り添い 横 臥(おうが)された 夫の皇子の 重なって寝た 柔肌さえも (剣太刀) お身に添えて寝ない ので (ぬばたまの) 夜のお床もすさんでいる ことであろう そのために 御心(みこころ)を慰 めるすべもなく ひょっとすると 夫君に逢え ないかと思って (玉垂の) 越智の大野の 朝 露に 裳はびっしょりと濡れ 夕霧に 衣は しっとりと濡れて (草枕) わびしい仮屋に泊ま られるのか 逢えない夫君ゆえに |
反歌一首 巻2 195 しきたへの 袖交(そでか)へし君 玉垂の 越智 野過ぎ行く またも逢はめやも 右、或(ある)本に曰(いは)く、「河島皇子を越 智野に葬(はぶ)る時に、泊瀬部皇女に献(た てまつ)る歌なり」といふ。日本紀に 云(い) はく、「朱鳥(あかみとり)五年、辛卯(しんばう)の 秋九月、己巳(きし)の朔(つきたち)の丁丑(てい ちう)に、浄大参(じょうだいさん)皇子川島薨(こう) ず」といふ。 |
反歌一首 (しきたえの) 互いに袖をさし交わして寝た夫君 は (玉垂の) 越智野を過ぎて行かれる また と逢えることがあろうか 右は、ある本に、「川島皇子を越智野に 葬(ほうむ)った時に、泊瀬部皇女に奉った 歌である」とある。日本書紀には、「朱鳥 五年九月九日に浄大参位川島皇子が亡 くなった」とある。 |